仕事と病気の遍歴

思いつきブログ編04:

こんにちは

今日はサラリーマン生活における仕事と病気の関係について、振り返ってみようと思います。

 

20代でとある会社に入社し、配属された工場においてサラリーマン生活をスタートしたわけですが、この会社はまだ歴史が浅く管理体制ができていない時代だったので、工場管理部門を立ち上げる段階の仕事が最初の仕事でした。

 

もちろん学校を出たばかりで、何をしたらよいのかわからないだけでなく、だれも答えを持っていない状況だったので、上から言われたらそれに邁進するしかありませんでした。

 

入社2年目の初めにIEなるものを勉強して来いと言われ、更に工場長が変わった4年目には「ホンダのマルJ」なるものを事務局として推進させられ、翌年には「トヨタの生産方式」なるものをまた事務局にさせられ、必死に勉強し、実践を始めたもののその2年後には工場長が変わり、大方針転換によりそれらはすべて白紙化されてしまいました。

 

まあ、このショックかわかりませんが、虫垂炎にかかり初めての入院を経験したものです。この時は上司が別の病院を進めるのも聞かず、近くでしかも産業医だった町の総合病院で手術を受けたのですが、やはり失敗で、傷口は大きく残り、退院後3か月間中から糸が出てくる処置を繰り返し、くだんの上司からは「それみたことか」と言われたものでした。

 

まず、これが仕事と病気の遍歴の始まりでした。

 

30代になると本社に転勤が決まり、住環境や仕事の環境、上司も大きく変わる中で、満員電車に揺られ超高層ビルに通勤し、今まで経験したことのない分野で、しかも海外にまで足を延ばすことになり、その負荷は年々蓄積して、そのストレスは知らず知らずにたまっていき、成人病の入り口に立たされたものでした。

 

40台になるとまた田舎の工場に転勤となって、最初の工場とは事業環境の違う分野で、また一からのスタートでしたが、ハードワークから多くの上層部の人が辞めていく中で、いつのまにかその主力となってしまい、そこへ景気後退の余波からリストラが行われ、きりきり舞いをした挙句、胃潰瘍、十二指腸潰瘍を併発し、病院通いの毎日となってしまいました。

 

その後、更に別の事業分野の違う工場に転勤となり、しかも初めての単身赴任となってしまいましたが、2年でまた本社勤務となり、過去の遺物の清算や海外支援を行う中で、事業トップににらまれ、元の工場に戻されてしまいました。この時には、先方の事業トップからは「もうお前はこれで終わりだ」と言われてしまう始末でした。体のほうも成人病が深く進攻し始めていたようです。

 

とはいうものの「捨てる神あれば拾う神あり」で、1年後には2度目の工場のトップとして赴任させられました。するといきなり、健康診断で潜血の指摘があり、その市立病院を受診してみると「大腸ポリープ」の診断。ポリープをとってみるとがん細胞が見つかり、慌てたものの、転移はないということで、その後定期的な内視鏡検査を繰り返したものです。

 

そうしたうちに次に来た内示は、グループ子会社への出向であり、そこへ行くととんでもない状態の会社で、いきなりその混乱に巻き込まれてしまいました。1年目には、尿管結石で深夜に救急車で運ばれ、2年目には原因不明の皮膚炎に悩まされました。これはインターネットで調べた漢方の薬局での薬治療により、改善しましたがいろいろなことがありました。

 

その会社も混乱期を脱して少し落ち着きを見せた頃、つぎはいきなり胸が苦しくなり、咳と痰で夜も眠れない状態になってしまいました。たまたま大腸の内視鏡検査に通っていた病院で診てもらったものの原因がわからず、大手病院を紹介され、胸の内視鏡検査という、胃カメラの10倍は苦しい検査の結果、「気質化肺炎」と診断され、薬治療を3か月して回復しました。

 

さてその後、また違うグループ会社に転勤(左遷?)させられている現在、今度は目と耳に異常が出て来ていますが、どう展開していくのでしょうか。正式な転勤だけで11回目、体のほうも3か所から内視鏡を入れられる経験はあまり多くの人は経験されていないことと思います。

 

その後についてはまた改めて、公開したいと思いますし、上記に書いた中にも皆さんにも参考となる情報やおもしろい事例もがあるか思いますので、思いつき次第公開していきたいと思います。

 

もし読んでくださった方がいれば、最後まで読んでいただいてありがとうございました。